ハイデルベルク城(Schloss Heidelberg)ー栄光と没落、繁栄と衰退

ハイデルベルク城は、プファルツ選帝侯ヴィッテルスバッハ(Wittelsbach)家の居城だった城で、三十年戦争、プファルツ継承戦争、落雷と、過去3回の破壊の憂き目に遭い、廃墟となった城です。

破壊されていなかったら、さぞかし華やかで素晴らしい城だったんだろうな…。

プファルツ選帝侯の栄枯衰退、歴史の傷とそれを守ろうとする人々の意思を感じさせる城になってるよ。

目次

ハイデルベルク城の構成と見どころ

かつてのハイデルベルク城
かつてのハイデルベルク城@ぺんた

城の中庭へは入場券を購入することでいけますが、城内ガイドツアーは別途入城券を購入する必要があります

団体ツアーでは難しいかもしれませんが、個人で行ったのならば、ぜひガイドツアーに参加してみてください。

ガイドツアーは英語とドイツ語のコースがあります。英語のコースは大所帯でしたが、ドイツ語のコースは少人数でガイドさんとの距離が近く、気さくにいろいろと質問することができました。

ガイドツアー終了後、ガイドさんにチップを渡すことを忘れずに!

ループレヒト館(Ruprechtbau)

ループレヒト館(Ruprechtbau)

ループレヒト館

ハイデルベルク城で最も古い建物。ゴシック様式。

ドイツ国王ループレヒト3世・フォン・デア・プファルツ(在位1400-1410)にちなんで名付けられました。

ルートヴィヒ5世の時代に、巨大な上層階が追加されました。

騎士の間(Rittersaal)には15世紀の交差ヴォールトが残っています。

城内ガイドツアーは、ループレヒト館から始まります。現在の廃墟になったハイデルベルク城の模型と、最盛期の城の完全な姿の模型があり、かつてどのような姿だったのかを知ることができます。

英国館(Englischer Bau)と太い塔(Dicker Turm)

英国館(Englischer Bau)
英国館と太い塔 @ぺんた

英国館の窓にルネサンスの漆喰が残っており、マニエリスム様式の豪華な装飾が施されていることから、この建物が豪華であったことが伺えます。

太い塔は、高さ約40m、壁の厚さは7mあります。1619年にフリードリヒ5世によって改築され、厨房と大広間が設けられ、演劇やコンサートが行われていました。

婦人館(Frauennzimmerbau)

婦人館(Frauenzimmerbau)
婦人館(Frauenzimmerbau)© José Luiz Bernardes Ribeiro

婦人館は1回部分明けが残っており、城の大広間である王の間(Königssaal)があり、現在も祝祭に使用されています。

かつてはポンプで地下のワイン室につながっており、祝祭の際にワインを汲み出せるようになっていました。ワインを汲み出すポンプは、さながら井戸のポンポのお化けのよう。

ガイドツアーに参加することで、内部を見学できます

最盛期には常時1,000人が城に勤め、多いときには2,000L/日のワインが消費されました。

1日1人1L以上飲むの?!?

昔のヨーロッパにとって、ワインは水代わりだからね。当時のワインは現在のように殺菌法が発明されていなかったから、いろいろな雑菌も繁殖して、かなり酸っぱいワインだったそうだよ。

オットハインリヒ館(Ottoheinrichbau)

オットハインリヒ館(Ottoheinrichbau)
オットハインリヒ館(Ottoheinrichbau)@ぺんた

旧約聖書や古代の神々の世界に登場する16体の彫像がとても印象的です。

オリジナルの像はコピーに置き換えられ、オットハインリヒ館の1階(皇帝の間、居間、シュトゥ―ベ)に置かれています。ルネサンスの扉枠も残されています。

ドイツ薬事博物館(Deutsche Apothekenmuseum)

1階にドイツ薬事博物館が入っています。薬事博物館へは、入場券だけで見学可能です。

ゴシック時代から19世紀までのヨーロッパの薬局と医薬品貿易について、蒸留器などが展示されています。

火薬塔(Gesprengter Turm)

火薬塔(Gesprengter Turm)
火薬塔(Gesprengter Turm)@ぺんた

粉(ハーブ)を保存していたことから、粉塔(Pulverturm)ともハーブ塔(Krautturm)とも呼ばれます。初期城砦のベルクフリートです。

1693年のプファルツ継承戦争の際に1/3が吹き飛ばされました。

フリードリヒ館(Friedrichbau)

フリードリヒ館(Friedrichbau)
フリードリヒ館(Friedrichbau)@ぺんた

ハイデルベルク城の豪華なパラス、フリードリヒ館。ファサードのプファルツ選帝侯家の人物像はコピー品に置き換えられ、オリジナルは廊下に飾られています。ガイドツアーでこれらの像を見ることができます。

1階に後期ゴシック様式の礼拝堂があり、交差ヴォールトにその特徴を見ることができます。

礼拝堂の上層階は、1764年の落雷による火災で消失してしまいました。

大樽

大樽(große Fass)

大樽

1591年に前身となる大樽が作られました。130,000Lのワインが入りました。

選帝侯カール・ルートヴィヒ(Karl Ludwig)より大きなものを求め、1750年に220,000Lワインが入る樽と置き換えられました。

ハイデルベルク城の歴史

下記の動画は、後期ロマネスク様式のブルクが次第に拡張され、シュロスとなり、強固な要塞となり、豪華な城へと変遷していく様子がCGで再現されています。

破壊される前の城は、どんなに華やかだったことか、想像力を掻き立てられるわ。

ハイデルベルク城の誕生

ハイデルベルク城は、都市ハイデルベルクの創設と密接な関係があります。9世紀から12世紀にかけて、ハイデルベルク周辺には修道院が多く設立されました。

ヴォルムス司教が最初のハイデルベルク城を建設し、谷間に小さな集落を作ったと思われます。

1011年

皇帝ハインリヒ2世がロブデンガウ(Lobdengau)をヴォルムス司教ブルクハルト1世(Bischof Burkhard I. von Worms )に与えます。

1155年

皇帝フリードリヒ1世赤髭王(Friedlich I. Barbarossa)の弟であるコンラート・フォン・ホーエンシュタウフェン(Konrad von Hohenstaufen)が、ライン=フランケン地方を相続し、ハイデルベルクを重要な都市へと発展させました。

1196年

文献にはじめて登場します。

プファルツ選帝侯の城として

宮中伯ヴィッテルスバッハ家の祖、宮中伯ルドルフ1世(Rudolf I.:在位1294-1319)が父ルートヴィヒ2世・フォン・オーバーバイエルン(Ludwig II. von Oberbayern)からライン地方を相続したことに始まります。

国王ループレヒト3世(Ruprecht III.)時代

都市を上から見下ろせる支配の座として、プファルツ選帝侯兼ドイツ国王ループレヒト3世の時代、最初の城の拡張工事が行われました。

防御性能だけでなく、権力を示すための建物の大きさや形が優先されるようになりました。

二重城壁となり、ツヴィンガー領域が誕生します。

居住機能と経済機能を持っていましたが、国王が暫定的住居として選んだのは、市内のアウグスティノ会修道院です。

住まないのに、なぜ城を拡張?

権力の象徴だからじゃない?

16世紀の要塞化

選帝侯フリードリヒ戦勝候(Friedrich dem Siegreichen:在位1451-1476)とルートヴィヒ5世(在位:1508-1544)の時代、防衛機能が大規模に拡張され、ハイデルベルクの街の上に大きくそびえ立つことになります。

太い塔、ロンデル、西側の城壁、深くて広い、門塔、跳ね橋、橋屋、ゼルテンレア、南側の盾、鐘楼、武器庫、堀切、ルプレヒト館、国王館、兵士館が強化または新たに建設されました。

ルートヴィヒ5世

ルートヴィヒ5世は内気で争いを避ける性格であったため、ハプスブルク家と連携し、ヴュルテンベルク、ヘッセン、バイエルン、ボヘミアと和解する統合政策を積極的に進めました。

マルティン・ルターがハイデルベルクを訪れた際は、自由に指導し、大学教授たちと意見交換できる機会を保証しました。

近世の城へ

フリードリヒ2世(在位:1544-1556)

ルートヴィヒ5世からフリードリヒ2世の時代になると、要塞としてでなく住居としての強化をはじめました。

外国の滞在が多かったフリードリヒはルネサンスに親しんでおり、ハイデルベルク城にもルネサンス様式を求め、鏡の間の館を建設しました。

オットハインリヒ(在位:1556-1559)

オットハインリヒは傍系のプファルツ=ノイブルク家出身で、芸術のパトロンとしての評価が高く、貴重な美術品を多く集めていました。シュマルカルデン戦争でノイブルクの地を失うと、ハイデルベルクに逃れました。

伯父のフリードリヒ2世が亡くなると、オットハインリヒが跡を継ぎ、多くの美術品とともにハイデルベルクに移り住みました。

オットハインリヒ館は、これらの美術品を収容するために建てられたものですが、建物が完成したのは、侯爵が亡くなった後でした。

ヨハン・カシミール(在位:1583-1592)

谷に向かって街側に押し出されるように大砲台(Großen Batterie)がつくられました。

フリードリヒ4世(在位:1583-1610)

豪華なパラスであるフリードリヒ館を建設します。

城の破壊へと続く道

フリードリヒ5世冬王(在位:1610-1632)

イギリス国王の娘、エリザベス・スチュアート(Elisabeth Stuart)と結婚し、周囲から反対されたものの、1619年にはボヘミア王としても選ばれ、ハプスブルク家と対立することになってしまいました。

ヴァイセンベルクの戦い(Schlacht am Weissen Berg)で破れたため、ボヘミア王としての治世はわずか1年であったため、冬王(Winterkönig)の二つ名がついています。

三十年戦争が勃発し、その余波でフリードリヒ5世は先祖代々の土地を失い、1623年にはプロテスタント連合の主導権をも失ってしまします。戦争はハイデルベルクにも広がり、フリードリヒ5世はオランダへ亡命せざるを得ませんでした。

三十年戦争の代償

三十年戦争によりオーバープファルツの領土を失い、選挙権も失いました。フリードリヒ5世は同じヴィッテルスバッハ家のバイエルン選帝侯マクシミリアン1世(Maximilian l. von Bayern)と争っていましたが敗北し、プファルツ選帝侯は以前のような輝きを取り戻すことが難しくなりました。

カール2世(在位:1680-1685)

三十年戦争後、荒れ果てた城と領土を見ることは悲しい光景でした。国家再生と経済振興は急務でしたし、諸外国との関係を深めることに奔走しましたが、再び紛争の足音が聞こえてきていたこともあり、要塞を補強しました。

カール2世の憂い

カール2世の妹は、フランス国王ルイ14世の弟君に嫁いでいます。カール2世には後継ぎとなる息子がいなかったのが最大の心配事で、プファルツ継承戦争を予期して城を強化したのではないかといわれています。

プファルツ継承戦争

カール2世が亡くなると、フランス国王ルイ14世がプファルツ選帝侯領の相続権を主張し、プファルツに侵攻してきました。

プファルツ地方がフランス軍の前に次々と陥落していき、「焦土作戦」により土地は交配していきました。

フランス軍はライン川を超えてハイデルベルクまで到達し、1689年3月6日、城は放火され、爆破されました

フランス軍が去った後、要塞の再建が急遽開始されましたが、廃墟となった建物を保存するのが精一杯でした。1693年、再びフランス軍が進撃を開始し、再建途上のハイデルベルク城は簡単に落とされ、さらに爆破されました。このとき、27000ポンドの火薬が使用されました。

破壊からの復興

中世から続くプファルツ選帝侯の家系が途絶え、ハイデルベルク城からの統治も同時に終了しました。(ただし、プファルツ選帝侯の爵位は、ヴィッテルスバッハ=ノイブルク家が引き継いでいます)

1697年のライスヴァイク条約以降、城を改修工事が始まりました。資金不足のため、再建は断念されています。

オットハインリヒ館やフリードリヒ館に屋根が取り付けられます。

選帝侯カール・フィリップ・フォン・プファルツ(在位:1716-1742)

ハイデルベルク城の再建を試みていましたが、これ以上の崩壊を防ぐための安全対策をする程度にとどまりました。

1720年4月12日、マンハイム城をプファルツ選帝侯の居城とすることを決定したため、ハイデルベルク市は一地方都市へと格下げとなりました。

落雷による消失

1764年に落雷があり、オットハインリヒ館、フリードリヒ館、鐘楼が消失しました。

選帝侯がミュンヘンに移り、選帝侯プファルツがバーデン辺境伯に移ったことで、ハイデルベルク城の再建は中止されました。

19世紀のロマン主義

ドイツで重要な歴史的建造物のひとつとして、高く評価されるようになります。多くの詩人や芸術たちを魅了します。

ゲーテ

バラとユリの朝は、私の家の近くの庭園で涙を流している。…。高い森を見ている。…。谷を見ている。

栄光と没落、繁栄と衰退

この動きに感化され、バーデン大公レオポルト(Großherzog Leopold von Baden:在位1830-1852)のもと、シャルル・ド・グレインバーグ伯爵(Charles Graf de Graimberg)の尽力により、崩壊を食い止めることができました。

廃墟を再建するか、保存するか、激しい論争がありましたが、「保存」が多数派となり、維持されることになりました。

ハイデルベルク城へのアクセス

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