ドイツの城(ブルク:Burg)の変遷

お城って、いつの時代からあったのかしら?

城(ブルク)の起源というものははっきりしないけど、先史時代から砦らしきものは存在していたよ。

外敵から身を守るために存在するのが城です。争いとともに城はありました。それゆえ先史時代から城らしきものはありましす。

武器の発達とともに城の防御設備も同様に発達し、ときには外国の知見も取り入れて発展していきました。しかし火器の発達により従来の城では防御しきれなくなり、城砦の時代は終焉を迎えることになります。

それでは、城砦の発達の歴史をみていきます。

目次

先史時代の城砦

避難城砦(Fliehburg)
避難城砦(Fliehburg)
Mogadir, CC BY-SA 3.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0, via Wikimedia Commons

先史時代の城は、谷、岩山、川、湖など、比較的守りやすいところに建設されていました。あたり前のことかもしれませんが、自然の地形は可能な限り活用して城を建設していました。

狭い出入り口だけを設け、それ以外の部分は木柵や土塁、石塁で囲った簡素な防御施設です。普段は使用しませんが、有事の際、家畜とともに逃げ込める避難城砦(Fliehburg)と呼ばれるものです。

この程度の防衛施設でも、襲ってくる敵に対しかなりの効果を発揮したと考えられています。

この頃の城砦に起源を持つ城の代表として、ヴュルツブルク(Würzburg)のマリエンベルク要塞(Festung Marienberg)があるよ。この要塞の起源は、ケルト人の砦だったといわれているよ。外観に当時の面影はまったくないけどね。

ローマ時代の砦

ローマ軍の砦
ローマ軍の砦
Veleius, CC BY-SA 3.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0, via Wikimedia Commons

ローマ帝国はゲルマニアとの国境に、土塁と木柵からなる国境城砦を建築しました。

要所要所に見張り塔(Wachturm)と城砦(Kastell)を設け、軍隊(Legion)を常駐させて国を守っていました。

ローマ軍の砦は四角形をしており、はじめは一重の堀と土塁、木柵から成っていましたが、次第に石の城壁と幾重もの堀を備えたものへと発展していきました。

兵舎、馬小屋、倉庫もすべて木造から石造りへと発展しました。城壁は厚さ4m、高さ4~8mあり、四隅に見張り塔が設けられていました。

このローマ軍の砦は、英語の “castle”,仏語の“chatâau”,伊語の“castello”の語源となっています。

避難城砦が城の起源とする説もあれば、ローマの城砦が城の起源だとする説もあるよ。ローマ軍の見張り塔が起源だとする説もあるから、見張り塔も紹介するね。

ザールブルク城砦について詳しく知りたい方は、こちらも見てね

ローマ軍の監視塔

ローマの城塞は重要な要所に設けられましたが、国境城壁のそれ以外の所は監視塔が設けられました。

監視塔は塔の周りに木の杭を密に打ち込んで囲み、その外側を水掘りで囲みました。塔の底面は7×7mから14×14mで、高さは15~25mで数階建てです。

1階には出入り口も窓も設けず、管理人の為の備蓄に使われていました。上層階にはバルコニーのような張り出し歩廊が設けられ、塔を1周して全ての方角が見渡せるようになっていました。

中世初期

モット・アンド・ベイリー
モット・アンド・ベイリー

初期のブルクは木製であり、モット・アンド・ベイリー(motte-and-bailey)と言われるものです。

人工的に盛り上げた丘の上に2~3階の塔を設け、周りを木柵で囲みました。モットの麓には防御された村であるベイリーが設けられ、同じく木柵で守られていました。

時にはモットもベイリーも周りを水掘りで囲み、更に防御を固めていました。

900年頃、フランク王国はマジャル人の攻撃を受けていました。

923年、ドイツ国王ハインリヒ1世(Heinrich I:在位929-936)は諸侯にモットを造る許可を与えました。それと同時にそれらに対抗しうる騎兵も準備させました。これがドイツの騎士の始まりとなっています。

そして各地の封建領主達、特に国境付近に住む封建領主はモットを造り、これらの襲来に対して自らを守るしか方法はありませんでした。

この時、数千ものモットが建てられました。これが、ドイツにおびただしい数の城が存在することになる要因の一つとなります。

それまでは城砦建設の許可が下りるまで、臣下ものもたちは城砦を築く事はできませんでした。ブルクを造る権利は王権に属し、臣下が城砦を築けば反乱の拠点ともなり得るので造らせなかったのです。

しかしヴァイキングやハンガリー人の襲来という事態から、臣下に城砦を造る事を許可せざるをえませんでした。国王の力の弱さを示しているともいえます。

後に続く騎士ブルク(Ritterburg)の起源をこのときのモットに見ることができます。

これらのモット弱点は、木製であることです。破壊槌や投石器に対して弱く、火に弱いのが致命的です。そのため始めは城壁の一部、後にはすべても石製になっていきました。

現存するモットはほとんどありません。モットは次第に水城へと進化していきました。それゆえ水城の登場は山城より早いとされています。

山城が登場するようになったのは水城よりもやや遅れ11~12世紀、山頂や山の突端部に立てられるようになりました。

中世中期―十字軍の影響

十字軍
十字軍

中世最盛期、ドイツは国王の二重選挙が行われるなど諸侯の対立が激しくなりました。それゆえ第二期城砦建設ブームが起こります。現存する城砦の基礎はこの時期にほぼ出揃いました。

十字軍が派遣された時代、十字軍士たちは中東より進んだ築城技術を学んできました。この時代、城の防御機能は飛躍的に良くなります。

シュタウフェン朝のフリードリヒ1世赤髭王(Friedrich I. Barbarossa)の時代。赤髭王は帝国直属ミニステリアーレ(Ministeriale)を組織し、帝国城砦(Reichsburg)に配置しました。

この時に建てられた城は石造りの環状城壁を持ち、たいていは四角形の塔を持ちます。地域によっては四角い塔よりも丸い塔の方が多い所もあります。

塔と城壁だけの簡単なつくりでしたが、当時の兵器では手も足も出なかったようです。

中世以降―衰退と復興

ブルクの衰退

銃器や大砲といった火器の登場により、ブルクの時代は終焉を迎えます。

どんなに城壁を分厚くしても、砲弾に耐えることはできません。

ルネッサンス時代の領主や王たちは、住居として壮大なシュロス(Schloss)を建設するようになり、ブルクは荒廃していきました。住居と要塞は同居する必要がなくなり、シュロスと要塞(Festung)へと機能分化するようになります。

16世紀初頭の農民戦争では、ブルクは圧政の象徴として、その殆どが破壊されてしまいました。

ブルクを住居として維持することができた貴族は、ごく少数に過ぎません。

19世紀のロマン主義による復興運動

19世紀になると、ロマン主義が流行します。

新興の裕福な市民層の中には、荒廃した城を買い取って修復し、自らを「貴族に列する」かのような振る舞いをするものが現れてきました。

裕福な市民層から城の復興を行うものが現れると同時に、中世の騎士物語や英雄譚が再発見され、オペラや演劇、文学作品の素材となりました。

ワーグナーの『タンホイザー』がその代表的な例でしょう。

リヒャルト・ワーグナー

中世の城や騎士物語からは、素晴らしきインスピレーションを頂いた。私の作品に生かさないわけなかろう。

ただこのとき、思い込みによる誤った復元をされてしまった城(例:ヴァルトブルク城)が多くありました。

現在の保全活動

城の個人所有者の殆どは、たとえ裕福であっても自分で管理していくことは難しいため、国や州から補助金を受けています。

城砦の大部分は、国または州の所有となっています。

城砦の維持にはひじょうに費用がかかるため少しでもその費用を回収しようと、魅力的な観光スポットにしようとする試みが、各地で行われています。

多くの城砦は現在一般開放されており、博物館やレストラン、集会所などにも使用されています。

古城を利用したホテルやレストランはステキよね。

ドイツ城郭協会(Deutschen Burgenvereinigung

ドイツ城郭協会は、ボード・エープハルト(Bodo Ebhart)教授が1900年に設立したドイツ保存協会が前身となり、1954年にドイツ城郭協会となりました。

プロイセン皇帝ヴィルヘルム2世(Wilhelm II.)からマルクスブルクを譲渡され、本部をマルクスブルクに移して活動しています。

城を使用するためには、時代にあった改築は少なからず必要ですし、維持していくためには計画的な修繕作業も必要となります。

ドイツ城郭協会は城の科学的・歴史的な研究をする一方で、城の修繕計画も建てて実行し、修繕内容も記録しています。

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